アドレス日本一周 east[45]
投稿日:2013年9月3日
異国の風の吹きぬける町
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函館港のフェリーふ頭から函館駅へとアドレスを走らせる。
函館港のフェリーふ頭前の道は国道227号と228号の重複区間。JR函館本線の跨線橋を渡り、国道5号との交差点を右折し、2キロほど走ると函館駅前に到着だ。
函館駅前の交差点は北海道の十字路。ここは国道5号の起点であり、国道227号と国道228号の起点にもなっている。さらに、これから走る渡島半島の国道278号と下北半島で走った国道279号の起点にもなっている。何とここは5本の国道の起点なのだ。
函館駅前の駐車場にアドレスを止めると、函館朝市の「どんぶり横丁」の食堂「恵比寿屋」で昼食。「いか丼」(1260円)を食べた。函館のイカに大満足!
朝市を歩いたあとは、アドレスを走らせての歴史探訪だ。
函館は1854年(安政元年)の日米和親条約により下田とともに、日本で最初に開港された港。そのため文明開化の波はいちはやく、この港町に押し寄せた。
海峡を見下ろす外人墓地の十字架やギリシャ正教のハリストス正教会、あちこちに残る古びた木造の洋館、海へとつづく石畳の坂道、港を見下ろすカフェテラス…と、函館は異国の風の吹きぬける町。それが心に残る。
江戸時代の日本は200年以上もの長い間、鎖国の夢をむさぼっていた。その夢が破られたのは1853年(嘉永6年)に、東京湾の浦賀にやってきた4隻の「黒船」によってであった。アメリカの東インド艦隊司令官ペリーに率いられた軍艦だった。
翌年、ペリーはふたたび日本にやってきた。幕府はその圧力に屈し、日米和親条約を結ばざるをえなかった。日本は昔も今も外圧にはきわめて弱い国なのだ。
条約の主な内容はアメリカ船に燃料や食料を供給すること、下田、箱館(函館)の2港を開き、領事の駐在を認めること、アメリカに最恵国待遇を与えることなどであった。
つづいてイギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を結び、徳川幕府の鎖国政策は完全に崩れ去った。
アメリカはハリスを総領事として下田に駐在させ、通商条約の締結を強く迫った。その結果、「黒船」がやってきてから5年後の1858年(安政5年)、大老の井伊直弼は日米修好通商条約を結んだ。
その内容は、下田、箱館のほかに神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)を開港し、江戸(東京)、大坂(大阪)の開市をし、通商は自由貿易とする、開港場には外国人の居留地をつくるといったもの。しかし、きわめて不平等な条約で、裁判権や関税などはアメリカのいいなりだった。
このような不平等条約をオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結び、日本の外国貿易は始まった。
箱館は横浜、長崎、神戸とともに日本最初の開港場になった。
日本の開国は蝦夷地の箱館からはじまったといってもいい。